善悪の悲願
幻想を交えた善悪の考察 この善悪の気づきについてヒントを受けたのはもう10年以上前のことですぜひ勇気を出して行動していきましょう。あなたの信じる善をどうか進めてください。
たとえ小さなほころびでも、放っておくと争いの種となり取り返しがつかなくなる。
善と悪というのがある。相対的に見ての話であるが。
相対性のない中で善悪というものという概念はただそれは有るに過ぎない。
善と悪との争いが起こるとすれば、勝利するのは悪ではなく正義であり、善であることを。
必ず悪は滅び弱くもろく、くしゃりとつぶれてしまう。悪に多くが屈するのはただいっときの混迷の時だけのことです。速やかに悪へ善の応酬が始まるべきです。それが悪と決めたとき善は速やかに発揮されるべきです。
人の自我というのは本来は自然状態で、善悪さだまっておらず無知な状態で生きることを学ぶ成長の中で善悪の両方を観察しながらでなくば、善と悪とを知ることができない。どちらも陰陽そろえて学ぶことができなくば、傾きが生じて生きにくくなるだがしかし、行うべきは知る限りの善でなければならない。そうでなければ気に毒、あるいは病が生じ、ひとは死へと流れる。善を効率よく学びたいと願うならば、
歴史を学び、聖典 聖書、ならび、聖人 成功者といわれる人の書物を開くといい。汗牛充棟の書を開いても満足できない者は喜ぶべき万人を導きぬける先駆者となりて、所作行動にて人を自然状態から法人とならしめ、無謀なるいさかいを仲裁し、行動力ある無知を抑えることができる。
この世を創造したる主というものがあれば、この暴れる九首の龍であるこの世の馭者であるに値する強さと知識欲と見識力、精神力を持ちあわせ、私利私欲にあばれる獣、悪魔、悪霊を、祓い清め、天使熾天使を従えあらゆる術を持ちあわせていることになる。さすれば世の鬼をおとなしく服従させ、苦しみから解放しよき働きに使役する力を持つことであろう。
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